コーパイの進藤君 スピンオフ3

今日は「コーパイの進藤君」のスピンオフ3をお届けします。

このお話は読まれてない方も多いのではないかと思います。

それではどうぞ。

 今年であの事故から30年か……。
 にわか雨があがった後のサウナのような蒸し暑い午後は、どうしたってあの日を思い出す。当時、俺(古田新太)は1985年4月に入社したばかり。日本航空156期パイロット訓練生だった。
 パイロット訓練生(略してP訓と呼ばれる)は入社して半年は地上職や営業などの一般部門で研修することになっている。同期の諸星(井原剛志)や桑原(大 鶴義丹)が女子ばかりの空港旅客部門に配属されてモテまくっているのに比べ、俺は航空技術部なるオッサンばかりの部署(しかも24時間営業)に回されク サっていた。
 シフト勤務だったので、8月12日の夕方は蒲田にある寮の部屋でゴロゴロしていた。1階の受付で電話が鳴っていたが(携帯電話なんてない時代だったのだ!!)、みんな出払っているのか、出る者はいなかった。
 仕方なく降りて行って「ふぁ~い、乗員寮~」と答える間もなく「倉田!テレビつけろって! テレビ!」と桑原の声がした。
信じられないかも知れないが、当時の俺の部屋にはテレビがなかった(ついでに言うと寮は木造で風呂はもちろんトイレも共同だった!)。
「つけろってどこのよ。おまえの部屋入っていい?」
「いや! それは絶対にダメなんだけど! ってか会社来い、会社!」
「なんでよ~。暑いじゃないの」
「落ちたんだよ」
「何に?」
「試験じゃなくて! うちの飛行機が落ちたんだよ!」

 どうやって会社に向かったのか、よく覚えていない。国電の駅まで行くのが面倒で、かと言ってタクシーに乗るカネもなかったので羽田にある会社まで走ったような気がする。もちろん今は歩くのも無理だ。

 羽田空港はお盆の帰省客と事故を知って集まってきたマスコミなどでごった返していた。人ごみを縫って空港ビル3階の運航乗員部に着くと、これまた駆け付けた社員で騒然としていた。集まってきた社員の中に長身の諸星の姿を見つけることができた。
「おい! 本当なのか?」
「ああ。伊丹行きの在来(※ボーイング747の国内線仕様機のこと)だ。7時ちょい前にアウト(※レーダーから消えること)した」
「ハイジャックでディセント(※降下飛行)とかじゃなくて?」
「N4(※ハイジャックなどによる救難信号)は出てない」
「エマ電(※緊急信号)は?」
「わからん。スコーク77(※機体異常信号)が出てたってうわさもあるが、まだわからん」
「本当に落ちたのか? どこらへんなのよ」
「それもわからん。でも、長野の山ん中って話だ」
「長野? アルプスってこと? 伊丹だろ? なんだってそんなとこ通るんだ」
「俺に聞くな。さっき対策本部が出来たけど詳しいことは誰もわからん」
「何があったんだ?」
「俺に聞くなって言ってるだろうが」

「おい!」
これまた同期一のモテ男の滝沢(上川隆也)がやって来た。余談だがヤツはアラフィフになった現在でもモテ男だ。
「おう。大手町(※本社のこと。現在は天王洲だが当時日本航空の本社は丸の内にあった)はどんなだ?」
滝沢は本店営業部で研修中だったのだ。
「こっちと同じだよ。それより……機長は高濱さんだったって」
「本当に?」
「マジかよ。あの人割愛(※自衛隊出身のパイロットのこと)だろ?」
高濱機長は海上自衛隊出身で、操縦の腕はもちろんのこと、面倒見がよくハンサムで、49歳にして乗務時間は1万2000時間を超える機長の中の機長と言わ れている人だった。“大雨のサンフランシスコ着陸”はパイロット仲間でも語り草になっている、まあ、今ふうに言えばレジェンドってところだ。

「本当に落ちたのか?」
俺はうわごとのようにつぶやいたが、何か口に出していなければ落ち着かないからそう言っただけで、言葉に意味はなかった。
「わからん」
同じように諸星もつぶやき、
「大変だ」
と、滝沢もつぶやいた。
 社員の誰もが、今何をすべきかわからずに、呆然と、でも慌てていた。

 あれから30年たった。同期の連中は乗っている飛行機も会社もバラバラになった。それでもパイロットである以上、8月12日のことは誰もが鮮明に覚えているはずだ。
今年俺は123便の高濱機長と同じ49歳になった。今日も安全に運航できるだろうか? 400人もの人命を預かってお前は大丈夫か? 未熟な俺は今でも毎日自分に問い続けている。

旧ぱたのうち井戸端会議 コーパイの進藤君 まとめスレッド 起上り小法師 – 18/3/19(月) 6:13 より。

尊い命を失われた方々の安らかな眠りをお祈りすると共に、ご遺族の皆さまに心からのお悔やみを申し上げます。