近代スポーツの政治介入と合理的勝利至上主義

爆サイコラム

ニュートンの力学とラプラスの確率論にケインズの経済学。

強い馬が強い仔を産む確率の高さに最も少ない投資をして最も勝つ確率の高い条件のレースをいかに選択し勝負するか、、馬主の方にも欠かせないこの3原理。

優秀な騎手が強い馬を求める事も、優秀なドライバーがより良いマシンを求めるのも、大谷選手が優勝するために赤いエンゼルスユニフォームから青いドジャースに移籍することも、人間性も伴い背に腹はかえれない僕たちの知らないエージェントを含めた沢山の人の思惑と駆け引きで色々と決められていく。

この3原理を競馬界でぶち破った馬がバブルど真ん中の1985年に誕生した、、奇しくも赤と青の勝負服の笠松競馬のオグリキャップだった、、。

曲がった脚で生まれた”ハツラツ”は、自力で母ホワイトナルビーの母乳を飲めず飲んだくれの牧場主の元で飼い葉もろくにもらえず雑草などを食べて育っていったオグリキャップ、、。

競馬界では、オグリキャップの父、ダンシングキャップの背景から”極端な短距離血統のダート馬です”と結論付けたのを嘲笑うかの如く、後に脱税で馬主登録抹消させられたバブルの紳士協定組がオグリキャップを政治的に中央入りを後押し、マイルCSからジャパンカップを連闘したり、ことごとくまで炎上しても他の国内のライバル馬を抜き去る姿は、誰も真似できないマネーゲームと圧倒的なマーケティング、ぬいぐるみまでも販売成功し、空前の競馬ブームをおこさせて現代に大きく影響することとなる、、。

野球界では今年、大谷翔平のエンゼルスの赤から青に変えたが、、、
ただ、かつてF1界で伝説となってしまった天才”アイルトンセナ”が赤のマクラーレンから、愛を持ってHONDAでの3度目のワールドチャンピオン制覇からのウィリアムズに行く時だけは、、青のロスマンズカラーを纏うセナの姿は今思えばやはり少し変な違和感を感じた人もいたのでは、、。



逆に、F1界でのアイルトンセナは速すぎる実力が故に、F1界の3原理での商業主義を担うチャンピオン”アランプロスト”を金と権力で支配する”バレストル会長”の保守派の独裁的な”レギュレーション”という名のセナへのハンデとも言える紳士協定と言う名の政治的会入もスピードと勝利を頑なに求めるセナは孤独に一人不可解なレギュレーションの変更と戦っていたとされているが、、、

1984年当時、無名のトールマンと言うチームから彗星の如く現れ参戦したブラジル出身のアイルトンセナは、一番難解な市街地を利用したレースコースで有名なモナコGPにおいて、豪雨のなか当時誰も見たことのないフルスロットルでのタイムで市街地を駆け抜け、一周毎に王者アランプロストを追い詰め、あと一周で優勝と言う時にプロストからの謎のレース中止要請を受け入れた疑惑の運営の判断にて、幻の優勝となったところからセナのもう一つの闘いが始まる、、。

ロータスに移籍した1985年、初優勝時もブラジルの政治情勢を臆することなく国旗を掲げるセナは貧困に苦しむブラジル国民の希望となり、後にチームメイトとなった王者をも周回遅れにするセナの勇姿は、戦後の日本における力道山の闘いに近いものだったかもしれない、、。

”レギュレーション”という名の政治的都合と安全性のためとされるレースにおける法律の変更は、誰しもが速すぎるセナに向けられたと当時見えていた、、、。

セナの3度目のタイトル以降、1992年1993年と電子制御システムを導入したウィリアムズが再びプロストとマンセルにてチャンピオンに君臨し、遂に1994年に電子制御システムを搭載したウィリアムズにセナが移籍することになると謎の電子制御システムの使用中止を開幕直前に決定した不可解なレギュレーション。

この時はすでに安全性に特に厳しいバレストルはF1界におらず、この急なレギュレーションの変更は誰の目にも安全性が疑われた、、。

さわやかなイジメに近いハンデを課せられるほどセナが規格外に速すぎた所以だったが、逆にバレストルなら、、政治的背景があるといえ安全性に欠ける直前の変更など到底しなかったはず、、、。

結果的に、突然の電子制御システムの廃止からウィリアムズのセナの車体への急遽変更でバランスを崩したセナの車体は、3戦目のサンマリノGPにおいてなんとかテクニックのみでポールポジションを取るが、、奇しくも秘密裏に電子制御システムを導入していたとされる開幕2連勝のベネトンの新人のミハエルシューマッハに迫られ、セナの車体はバランスを崩しタンブレロコーナーでフルスピードでコンクリートバリアに激突した、、、。

術後の医師曰く、セナの体は打撲の後も傷もなかった、、。

が、、スピードを求めすぎた故にコクピットまでも狭くした車体とタイヤを繋ぐサスペンションアームの破片がセナのヘルメットを貫通し、、セナは音速の彼方の星となってしまった、、

1980年台後半から1991年までのバレストル会長の傲慢な安全性向上のための数多くの規則変更はセナを始めするかなりの反発と確執を生んだものの、今日のレース界において多大なる貢献を果たしたと評価されている所以は、バレストル政権以降に1994年のアイルトンセナをはじめとする12年ぶりの死亡事故などが起こり、やはり結果としても確執が起こるくらいの厳しい規則でレースへの安全性を警鐘するくらいの長がいたほうが、、いざとなると取り返しのつかない予測不可能な結果をレースで生んでしまう事となる、、。

今日の競馬界の騎手の問題においても同様、、沢山の思惑が絡み合い政治的介入とお金が絡むレースの世界では、たかが携帯電話の使用とはいえ、疑わしいことがないにせよ、純粋にスポーツとして一人の騎手として勝負していた未来ある騎手の選手生命を脅かす轍になっていたのかもしれない、、が故に、、、

バレストル政権の如くより安全性も含めた厳しいレギュレーションは正式なレースを遂行する上では最も重要な事と、今も、残念で仕方のないアイルトンセナがいない今日の世界で再び強く感じる、、。

生前、セナはお金の政治も絡んでいない純粋な勝負だけをしたカートレース時代が一番楽しかったと3度目のチャンピオン後のインタビューで述べていた、、。


セナの死後、3600万人のブラジルの子供達の教育の為のセナ財団の管財人が、、

犬猿の仲だった、アランプロストであることに僕はまた涙した、、、。