Sadao S. Munemori Memorial Interchange

どもども皆様こんにちは、MPの独り言の時間がやってまいりました。
暑い日がつづきますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

あれっ? 今、なんか日本人っぽい名前が書いてあったような気が……「*** Memorial Interchange(なんたら記念インターチェンジ)」……

ロサンゼルスの海岸よりを南北に走る 405というフリーウェイ(FWY)を下っていた私の目に、ある標識の文字が通り過ぎました。アメリカに来てしばらくしてやっと運転にも慣れてきた頃の話です。

405というのははロサンゼルスの海岸よりを南北に走るFWYで一日当たりの平均利用者数が全米で3番目という、非常に利用者の多いFWYです。
その標識が目に入ったのは、 I-105 という東西に走るFWYと交わるインターチェンジのあたり。
I-105 は、ロサンゼルス国際空港(LAX)の方に向かうFWYでして、405と105の交差するインターチェンジはかなり大きなものです。

……いやいや、こんな大きなインターチェンジに日本人の名前が付いてる訳ないでしょ。
きっと見間違いだろう……とその時は思ったんですが、しばらくしてまたそこを通った時に確認すると、書いてあったのですよ。

”Sadao S. Munemori Memorial Interchange” (サダオ・ムネモリ メモリアル インターチェンジ)

『ムネモリ・サダオ』<=これどう考えても日本人の名前だろ。なんでこんな大きなインターチェンジに日本人の名前が付いてるんだ?

『ムネモリ・サダオ』という人物が気になった私は、帰ってから調べてみました。

旨森 貞夫(ムネモリ・サダオ)は、第二次世界大戦時に日系人として初の名誉勲章受章者となったアメリカ陸軍の兵士でした。

貞夫(愛称は「スパッド(Spud)」は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊所属の上等兵(Private First Class)としてイタリア戦線に従軍。ドイツ軍の防衛線であるゴシック・ライン攻略作戦に参加した際1945年4月5日「ジョージア高地」山頂への進撃中、『塹壕に投げ込まれた敵の手榴弾に覆い被さって戦死』し、中にいた2人の部下の命を救った。

享年22歳。

戦死した時、まだ22歳ですよ。今だったら大学卒業するかしないかくらい。
しかも従軍前は、マンザナール強制収容所(日系人収容所の1つ)に収容されていたそうです。

ポーク・チョップや煮しめを好んだ青年、旨森貞夫。
405号線の巨大なインターチェンジに刻まれた名前は、彼の生きた証です。

名誉勲章 勲記

アメリカ合衆国大統領は、合衆国議会の名において、上等兵サダオ・S・ムネモリ(ASN: 39019023)に名誉勲章(追贈)を授与することを誇りとする。

ムネモリ上等兵は、1945年4月5日、イタリア・セラヴェッツァ付近において、第92歩兵師団に配属された第442連隊戦闘団第100歩兵大隊A中隊の一員として、敵に対する戦闘行動中、任務の要求をはるかに超える顕著な勇気と不屈の精神を示した。

彼の属する部隊が、敵の堅固な山岳防衛陣地からの掃射により前進を阻まれ、分隊長が負傷したため指揮が彼に委ねられた際、ムネモリ上等兵は激しい直射砲火の中、単身正面から突撃し、手榴弾をもって敵機関銃二挺を果敢に撃破した。

その後、他の敵陣地からの殺到する銃撃と手榴弾の雨の中を後退していたところ、彼は自らのヘルメットに当たり、近くの砲弾孔にいた二名の部下の方へ転がり落ちた未爆発の手榴弾を認めた。

ムネモリ上等兵は、激烈な銃火の中に身を起こし、手榴弾へと身を投じ、その爆発を自らの身体で覆い隠した。

その迅速にして至高の英雄的行為により、ムネモリ上等兵は二名の部下の命を救い、己が命を捧げることで、中隊の勝利への前進に大いなる貢献を果たした。

Sadao S. Munemori
Private First Class
Company A, 100th Infantry Battalion,
442d Regimental Combat Team, 92d Infantry Division
August 17, 1922 – April 5, 1945