超能力だと言い張ってはや数十年。
台風や気圧の変化が近づくと偏頭痛が始まり、天然パーマは湿度計のように反応する。本人は「心身ともに感受性が高い証拠だ」と、今日も言い張っている。
それはさておき、「痛みなんて無ければいいのに。」そう思ったことがない人は、おそらくいないだろう。
頭痛。腰痛。歯痛。失恋。孤独。喪失。
痛みを歓迎する人は、まずいない。
痛みの先にある話は、また別の機会があるのかな。

とにもかくにも痛みは嫌だ。だから痛み止めを飲み、湿布を貼り、麻酔を使い、できるだけ痛みを遠ざけようとする。歯が痛すぎてペンチで引っこ抜いた話は誰も信じてくれないけど、歯の痛みは、それほど人を追い詰める。江戸時代には歯痛に耐えかねて自殺した人がいるくらい、とにかく痛みは辛い。
もし痛みが、この世から完全になくなったらどうなるだろう。
実は、それは想像以上に恐ろしい世界かもしれない。
熱い鍋を触っても気付かない。骨が折れても歩き続ける。舌を噛み切るほど食べても分からない。まるでゾンビ映画のような世界だ。
痛くないから健康なのではない。危険を知らせる警報が鳴らないのである。
火災報知器を外した家が安全とは言えないように、痛みのない身体は、ときに非常に危うい。
痛みは、身体から届く「異常を知らせるメール」なのだ。
届くメールは、読みたくない内容ばかり。しかし、読まずに削除してしまえば、その先にはもっと大きな問題が待っているかもしれない。
薬も同じだ。
鎮痛薬は素晴らしい。麻酔は医療を変えた。痛みを和らげることは、人の尊厳を守ることでもある。だから「我慢こそ美徳」とは思わない。
ただ、痛みを消すことと、原因を消すことは違う。そこを混同すると、身体は何度も同じメールを送り続ける。
件名を変えて。文字を大きくして。最後は緊急通知のように。
痛みは、身体の言葉なのだ。
身体には、痛みに対抗する仕組みまで備わっている。
強いストレスや極限状態では、脳内でエンドルフィンなどの神経伝達物質が働き、一時的に痛みを感じにくくなることがある。状況によっては、高揚感として感じることもある。
スポーツ選手が試合後に骨折へ気付くこともある。災害時に大けがをしていても、人を助け終えるまで動き続ける人がいる。
身体は、生き延びるために、自ら鎮痛剤を作る。ときには効きすぎることもある。実に巧妙だ。だから、この仕組みを「脳内麻薬」と呼ぶことに抵抗はない。
しかし、その言葉だけが独り歩きすると誤解も生まれる。
脳内麻薬は快楽を与えるためだけに存在するわけではない。苦痛を和らげ、生き延びる時間を稼ぐための、生存装置でもある。
快楽と痛みは、まったく反対の存在ではなく、同じ生存システムの両輪なのだ。
痛みは嫌だ。
だが、成長するときにも痛みはある。筋肉は小さな損傷を修復しながら強くなる。失敗は心を痛める。別れは胸を締めつける。それでも、その経験が人を少しだけ深くすることがある。
もちろん、すべての痛みに意味があるとは思わない。理不尽な暴力もある。病気もある。事故もある。その痛みを美化するつもりはない。
ただ、痛みを完全な敵と決めつけると、その痛みが伝えようとしている声まで聞こえなくなる。
身体は嘘をつくことがある。心も勘違いをすることがある。しかし、痛みには必ず何らかの理由がある。
その理由が身体にあるのか。心にあるのか。生活にあるのか。人間関係にあるのか。あるいは社会そのものにあるのか。
それを探すことは、薬を飲むことと同じくらい大切なのではないだろうか。
「痛みをなくす。」
現代医療が目指してきた大きな目標である。
否定しない。歓迎だ。
しかし、もう一歩だけ踏み込むなら、「痛みから何を学ぶか」という視点も失いたくない。
痛みは歓迎すべきものではない。できることなら避けたい。
それでも、私たちが今日まで生き延びてこられたのは、痛みという厄介な案内人が、何度も危険を知らせてくれたからでもある。
敵か、味方か。
そんな二択では測れない。
痛みは、生きるために身体と心が送り続けている、少し不器用なメッセージなのだ。
P.S.
ちなみに、人生150年なんて言われ始める時代に、まだ三分の一程度しか生きていないはずなのに、身体のあちこちから毎日のようにメールが届く。どうしたものだろう。

