気持ち良いって、気持ち良い。
そりゃそうだ。
馬鹿みたいに当たり前の話だけれど、説明しようとすればするほど、最後はこの身も蓋もない一文へ戻ってくる。
好きな音楽に身体を預ける。一服して、頭の中のざわつきが少し静かになる。
その時、脳や身体では、ドーパミンやらセロトニンやら、オキシトシンやらβエンドルフィンやら、なんやらがドバドバ出ている——と、つい言いたくなる。
まあ、「ドバドバ」なんて便利な言葉で片づけられるほど、脳は単純でも親切でもないらしい。
脳みそはファミレスのドリンクバーではない。
このボタンを押せばドーパミン。隣を押せばセロトニン。全部混ぜれば最高に気持ち良い。そんなわかりやすい機械なら、苦労はない。
2019年にTENGAが世界9カ国の18歳から54歳を対象に行った民間調査では、14の行為を「快いと感じる順」に並べている。
日本での平均順位は、「美味しい食事をする」が1位、「大切な人たちと一緒にいる」が2位、「愛する人を抱きしめる」が3位だった。
よりによってTENGAに快感を尋ねられて、うまい飯、愛する人との時間、抱擁が上位に並ぶ。
なんとも日本人は奥ゆかしい。
そこはもう少し、こう、なんかあるだろう——とも思うけれど、らしいといえばらしい感じだ。
もちろん、一つの民間調査だけで日本人全体を語ることはできない。
それでも、気持ち良さというものが、派手で強烈な刺激だけでできているわけではないことくらいは見えてくる。
快感は、頭蓋骨の中だけで起きる一人芝居ではない。
人と人との間にも生まれる。
「報酬」と聞けば、金や賞品や見返りを思い浮かべる。
けれど、脳にとっての報酬は、札束や金メダルだけではない。
誰かが笑ってくれた。ありがとうと言われた。仕事をやり切った。昨日より少しうまくできた。自分を裏切らずに済んだ。そんな納得や誇りや安堵も、人を次へ向かわせる。
人は、報酬だけで動くわけではない。けれど、報酬から完全に自由な仙人でもない。
金はいらない。褒められなくてもいい。それでも、自分が正しいと思うことをしたい。誰かの役に立ちたい。約束を守りたい。
そこにも、納得や愛着や誇りがある。
だからといって、愛や善意を「結局は脳内物質に動かされているだけ」と片づけるのも、ずいぶん味気ない。
愛することで脳が報酬を受け取ったからといって、その愛が偽物になるわけではない。
それを言い始めたら、音楽は空気の振動で、抱擁は皮膚への圧力で、夕焼けは光の散乱にすぎない。
説明としては間違っていない。
けれど、それで全部なら、人生は理科室で終わってしまう。
ドーパミンも、「快楽物質」の四文字で済ませれば話は早い。
早いけれど、だいぶ雑だ。
ドーパミンは「気持ち良い」そのものだけでなく、「これは大事だ」「覚えておけ」「もう一度そちらへ行け」と、経験に印をつけ、そちらへ身体を向かわせる働きにも深く関わっているらしい。
だから、「好き」と「欲しい」は同じではない。
好きだから欲しいことはある。
けれど、もうそれほど好きではないのに、「欲しい」だけが残ることもある。
反対に、大好きだけれど、所有したくも、繰り返したくもないことだってある。
「好き」と「欲しい」は、いつも手をつないで歩いているわけではない。離れているからといって、仲が悪いわけでもない。
「欲しい」が「好き」から独り立ちすることがある。「好き」もまた、「欲しい」から離れて生きていける。
厄介なのは、気持ち良さはもう帰ったのに、「もう一度」だけが玄関先に立っている時だ。
快感を求めて始めたはずなのに、いつの間にか、快感を得るためではなく、それがない時の苦しさを消すために繰り返すようになる。
プラスを取りに行く行為が、マイナスをゼロへ戻す作業に変わる。
それは快楽を追いかけているというより、苦痛から逃げ続けている状態に近いのかもしれない。
人が求めているのは、いつも強烈な喜びとは限らない。ただ少しの間、苦しくない時間が欲しいだけなのかもしれない。
快楽の亡者に見える人が、実は「苦しくない数分間」を買い続けていることだってある。
酒も、大麻も、ニコチンも、ギャンブルも、SNSも、食事も、すべて同じだと言いたいわけではない。
薬理も、強さも、立ち上がり方も、良さも、害も、離れにくさも、それぞれ違う。
違うものを全部、同じ鍋へ放り込むつもりはない。
ただ、どれも「もう一度」を覚える人間の仕組みと無関係ではない。
たかが快感。されど快感。
しかも今は、こちらが快感を探しに行くだけではない。
向こうから来る。
商品も、広告も、ゲームも、SNSも、画面の向こう側から、こちらの「もう一度」を先回りしてやってくる?
もっと見ろ。もっと買え。もっと食え。もっと勝て。もっと反応をもらえ。
もっと、もっと、もっとと。
人間がボタンを押しているのか。ボタンのほうが人間を押しているのか。時々、わからなくなる。
快感が敵になるというより、快感のボタンを何度でも押させるように設計された環境が、こちらの選ぶ力を少しずつ麻痺させていくようだ。
快感は味方なのか、敵なのか。
終わったあとに身体が少し整い、人との関係が深まり、たとえぐったりしていても、明日を生きる力が残るなら、快感は味方なのだろう。
ほかの喜びが色褪せ、「したい」が「しなければならない」に変わり、自分で選べる範囲が狭くなっていくなら、快感は敵のように働き始めている。
本当の敵は快感そのものではないのかもしれない。
孤独、疲労、痛み、空虚さ。そして、一種類の快感だけを避難所にしなければ、生き延びられない環境。
快感が「また、どうだ」と誘ってくるうちは、まだ話し合える。誘いなら、交渉できる。
「今すぐやれ」
「もっとやれ」
「それ以外はいらない」
そう命令し始めたら、少し距離を測り直したほうがいい。
気持ち良いって、気持ち良い。
だから、味わえばいい。
ただ、「もう一度」に即答する義務はない。頷いてもいい。今日はやめてもいい。明日に回してもいい。自分で選べる余白だけは残しておきたい。
快感を、快感のまま終わらせられる自由。
味方か敵かを決めるのは、快感の強さではない。
快感のあとにも、自分の選択肢が残っているかどうか。快感のあとにも、自分が残っているかどうか。
たぶん、そこなんじゃないかな。
流され流され、流されっぱなしだけど。


